もうひとつの世界

蒼-10

二人で湯船の中から、ぼぉっと湯気が天井に上がっていくのを眺めていた。一之進がふうっと長いため息をつくと、とき葉はすらっとした手で、冷えてしまわぬよう一之進の肩に交互に湯を掛ける。
「おまえとずっとこうしていたい、とき葉、もしもわたしと毎日一緒いたらわたしとおまえは幸せだろうか?」
思ってもみなかったことを耳にしたとき葉は、返答に困ってしまった。
ここの女が楼から出られるとすれば、年季が明けるか身請けをされるかどちらかしかない。身請けとは、女が楼へ来る時に背負って来た借金と今後の楼への保証金として莫大な金額を使うことになる。
よっぽどの大尽でない限り、無理なことであったがとき葉は一之進ならできるのではと一瞬思った。が、今からする自分の返答が、身請けをねだることになるのはとき葉の本意ではない。一之進がどこの武家か大名かは知らないが、身請けできるだけの家であれば相当の名家と考えて違いない。
だとすれば、その家の妾や妻になったとしても、とき葉は生涯「あの女は女郎をしていた」と家の中でも言われ続けるだろう。
「あなた様は外ではきっと大切なお役目がありましょう。そんな大事を果たした後、待っている女がわたくしのような者では釣り合いません」
「返答になっておらん」
一之進は少し寂しそうに言い、肩まで湯に浸かり込んだ。とき葉は少し考えて一之進に少しだけ背を向けるようにして小さな声でつぶやく。
「…この上ない幸せにございます…」
すぐさま、元のはっきりとした口調でとき葉は続ける。
「一之進様『晦日の月』と申します。このようであったなら、もしも、などと話すうち期待が膨らんで、それが叶わぬことがつらいのです。ならぬことはならぬものと思っておかねばここには居られません」
晦日とは月の終わりの日を指す。新月にあたるので、どんなに晴れていようと月が見えることがない。ありえないことを指して言うのである。
「…湯にあたります、そろそろお出になりましょう」
振り切るようにとき葉は一之進を促した。一之進がお内儀の言っていたように身分の高い者であるならば、楼の女など迎え入れることは身分違いも甚だしいであろう。とき葉は自分をがっかりさせるのが恐ろしかった。
「…待っていてくれ」
ぽつりとつぶやいた一之進をよそに、湯気の先を見上げると、風呂の高窓の格子からは、煌煌とした満月が顔を出し、その明るさのせいで空は蒼く広がっていた。とき葉は、一之進の肩に手をかけて言った。
「今日が晦日であれば良いのに…」

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蒼-9

引け四つの拍子木が鳴り、宴も終焉を迎えた。座敷の隣には布団が用意され、とき葉は着替えをしてくると一之進に告げると、一之進は意外な事を口にした。
「とき葉、湯に入らないか。なぜか体が冷めてしまったようだ」
「はい、ではすぐに湯の用意を」
とき葉は、眠そうにしていたこはくに湯の用意をするように頼むと、こはくは座敷を出て、廊下の奥にいた喜助にむかって
「喜助どーん、湯をやっておくれ」
と甲高い声で言っているのが聞こえる。
「まぁ、こはくったら。あんなに大きな声で」
「よいではないか、こはくは素直な子だ。とき葉はこはくがかわいいか?」
「はい、私はあの子が自分の年の離れた妹か子どものように思えてなりません。ただし、禿となってきたからにはあの子も何か由があってここへ来たのでしょう。ならば、ここで生き抜いていけるように私はこはくをきっちりと一人前の女へと育てねばなりません。行儀見習いだといって、都合良く使われて、禿に八つ当たりをする者もおりますが、それはここではよくあること。そんな理不尽なこともこはくの先の力になるでしょう。」
「こはくはつらがっておるか?」
「いいえ、私にはそんな顔は微塵も見せません。でも寝る時分になると布団に顔を引っ込めてじっと起きていることがあります。こはくは縁あって私の元に来た禿ですから、私がこはくをかばい、かわいがらねばなりません。十にも満たない子どもに楼のしきたりや慣れごとは少々きつすぎます。私がこはくの逃げ場となり、信頼に足る人間として存在しなければ、あの子の素直さは失われてしまいます」
火鉢の炭をつつきながら、とき葉はこはくのことを切々と話した。きっと自分がここへ来たときの気持ちを思い出しているのだろう。互いに様々な思いが頭の中をめぐり、しばらくの沈黙が続いたとき、こはくが座敷に戻ってきて、湯の支度が整ったことを告げた。
「こはく、先におやすみ。今夜は少し冷えるから、余分に着て寝なさい」
「あい、お先に」
深々とお辞儀をして、こはくは座敷を出た。そんなこはくを見て、一之進は宴の席でとき葉に過去を訊ねたことをますますすまないと思った。
「こはく、今夜はゆっくりと寝られればよいが」
「さあ、湯に参りましょう。あの子なら大丈夫です、今日はお菓子も頂き、あのようにはしゃいでおりましたから疲れてよく寝られます。それに芯の強い子ですから」

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蒼-8

座敷には台の物が運ばれ、三味線を持った男衆と芸者が座敷に入って来た。とき葉は白地に極彩色の鞠の模様の袷に黒い緞子の帯、格子模様に菊の柄の赤い打ち掛けに着替えていた。情を交わした後のけだるい様子もなく、さすが幼い禿のころから鍛えられているだけあって新鮮さすら感じさせるほどに華やかな雰囲気だった。
芸者が三味線をかき鳴らし、こはくが楽しそうに手遊びをする。一之進は
屏風の前にとき葉と並んで、そんな様子を眺めていた。
「なぁ、とき葉。おまえも幼いころはこのように遊んでおったのか?」
「はい、ここに来てからしばらくは、このこはくのようにいろいろな手習いをし、作法見習いをしておりました。無邪気なものです…これ、こはく。おまえもこちらへ来てお上がり」
一之進が聞きたかったのは本当はそんなことではなかった。とき葉がどこで生まれ、どのようにここに来たのかは初めて会ったときから気になっていた。
「…ここに、来る前のことは覚えておるか」
とき葉は笑みをたたえながらもきっぱりと答えた。
「はい、つまらない話でございます」
一之進は少しすまない気持ちになった。ここへ好んで来る女などいない。すべての女が借金を背負わされ、あるいは親に売られ、金というものに縛られて閉じ込められているも同然の生活をおくっているのだ。
「すまぬ。許してくれ」
「謝るとこはありません。私こそ不躾なお返事をいたしました。お許しください」
とき葉もここに来るには相当の苦労があった。しかし、人に話したところで過去は変わらない。一之進がとき葉の話を聞けばおそらく同情するであろう。客ならば同情をひく話のひとつでも打っておけばよいが、とき葉は一之進が自分の過去を聞いてつらい気持ちになるのが嫌だった。
太鼓持ち(幇間)がおかしな踊りを披露して、わざと転んだり滑ったりして笑いをとっている。
「もうひと月もすれば、桜も咲くだろう。今宵は暖かいな」
そういうと、一之進は盃の酒を一口あおった。

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蒼-7

「あ…あっ、早く来て…」
羞恥に狂い、奥ゆかしく自分をねだる時、一之進はこれほどとき葉を愛おしいと思うときはない。盃を投げ出し、とき葉の肩を掴む。
「とき葉、わたし以外の男にはそんな姿をみせないでおくれ…おまえはわたしのものだ」
とき葉の両手を戒めていた腰紐をするすると解き、腰を抱いてとき葉を横たえさせ、とき葉の上に覆いかかると二人は熱く契りを交わす。楼の女が男よりも先に絶頂を迎えるのは恥とされていたが、とき葉は一之進の熱い突進を全身で受け止め、体を大きく反らす。
「あぁっ…もうだめです、もう…」
一之進の背中に手を廻し、とき葉の手には力がこもる。白い足はわずかな痙攣を見せ、とき葉は深く息を吐いた。
「逝ったか、とき葉」
一之進も息を弾ませながら、男冥利につきるとばかりにとき葉をきつく抱きしめる。今度は自分が下になり、とき葉を腰の上に座らせて手を繋ぐと、とき葉は一瞬観念したような表情を見せ自ら快楽に落ちていくように腰を動かす。
「とき葉…綺麗だよ…顔をよく見せてくれ」
「…られません…見せられません…あなた様以外の…人にはこんな…」
「そうだよ…わたし以外の男には、こんなに乱れないでおくれ…さぁもっとよく見せるのだ」
二人は絶頂の時を同時に迎えようとしていた。遠くで寺の鐘の音が聞こえる。

何刻か経った後、まどろみの中にいる二人は物音に気がついた。先刻、菓子を買いに行った禿のこはくが部屋に三方をそっと運んできたのだった。
三方の上には、青山庵の伊勢最中がちょこんと二つ並べられていて、黒文字が添えてあった。
すっかり日は沈み、細く開けた障子からは紺色の空が見えた。
布団の中で両手でしっかりととき葉を抱いたまま、一之進はこはくに微笑みかけ礼を言う。
「ごくろうだった。ついでに茶を入れていってくれるか」
こはくは無言でこくりとうなずき、火鉢にかけられた鉄瓶の湯で茶を入れる。とき葉もそれに気づきこはくに声をかける。
「こはく、おかたじけ。お前も茶を飲んでお行き」
こはくは幸せそうな二人を見て、照れくさそうにしながらもうなずいて茶をもう一つ注ぐ。とき葉はゆるゆると一之進の手をほどき襦袢の襟を合わせて布団から出る。
「おまえの名はこはくというのか?良い名だな」
一之進はこはくに話しかける。菓子を買いに遣わされる前とはすっかり違い、こはくの緊張は解けている様子で、きちんと一之進に茶を差し出す。
「あい、お先にちょうだいしました」
よほど菓子がうれしかったのか、こはくは思い出したようににっこりと笑う。
「こはく、口の周りに餡がついたままですよ」
姉のような口ぶりでとき葉が真剣に言うと、こはくは慌てて袖口で口をこする。一之進ととき葉は顔を見合わせて笑うと、一之進が口を開く。
「とき葉も人が悪い、餡などはなからついてはおらぬ。こはく、腹は減らぬか?もう夕の食事の時間であろう」
夜見世を知らせる拍子木が鳴った。禿の食事や着物はすべて、その面倒を見るとき葉のかかりになっているので、とき葉に客があるときは先に食事をすることはない。楼主の居室である内所では、少しの白飯と香の物くらいは貰えるが、とうてい満足するようなものではない。
そのとき、楼の二階を仕切る男衆の喜助が襖の向こうから声をかける。
「旦那様、台の物をおとりいたしましょうか」
どこの楼でも、二階を取り仕切る役目の者は喜助と呼ばれ、部屋の様子を知られぬように把握して、適時よく声をかける。台の物とは、仕出し屋やそば屋が運んでくる食べ物のことを言う。
「頼んだよ、豆腐を温かくあつらえてくれ。こはく、食べたい物を頼んでおいで」

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蒼-6

それでも一之進は容赦ない。とき葉の反応をおもしろがるように耳たぶを噛む。一之進は、男女の交わりの時には普段のさっぱりとした気性とは違った面を持つ。自分の動きに反応しているとき葉の表情やしぐさを見ると、もっとめちゃくちゃにしたい、壊したいという衝動に駆られる。掛け布団など傍らにめくり捨て、とき葉に胡座をかかせて自分の腰紐で後ろ手に縛り、襦袢を脱がさずに裾を腰まで捲る。とき葉は手を戒められているため隠す事もできず、恥ずかしくてたまらないような表情になるが、わざと煙草に火をつけそっけなく声をかける。
「とき葉、おまえのここはこんなに見て欲しいと泣いてせがんでおる」
一服煙を吐き出し、少し酒の残っていた盃を飲み干す。空になった盃をとき葉の秘部にあてがう。
「あぁ…やめてください。とき葉はそんなに…」
「濡れてはおらぬと申すか、ほれ、こんなに溜まっているではないか」
わずかに盃に垂れたしずくをとき葉の目の前にもっていき見せつける。とき葉はいやいやをして見ない振りをするが、見なくても自分が十分に潤っていることはとき葉本人が一番わかっていた。
とき葉が水揚げの時に手ほどきを受けた爺も、そのような趣向の強い大店の商家の主であった。楼主がとき葉の性格を見抜いた上であてがった客で、数々の女を品物に仕立てあげてきた来た楼主にさえ、とき葉の恥じらう姿は一幅の掛け軸にも勝ると言わしめるまでにとき葉を成長させた粋人であった。それがとき葉にとって幸せなのかは誰にもわからないが、おかげでとき葉はそのような趣向を持った少数の豪商や武士を客としていたため、毎日毎晩、何人もこなさねばならない他の女達よりは体力的にも、金銭的にもましであった。とき葉の客はたいてい居続けといって昼見世から夜見世、そのまま朝まで居る事が多かった。そうは言っても心の無い男女の交わりを強いられることは女にとっては地獄に変わりはない。そんな中で一之進との逢瀬はとき葉の生きるよすがであり、この上ない幸せのひとときであった。
「一之進様、お許しくださいませ…」
羞恥にからだを折り曲げるようにして懇願するとき葉を横目に、しずくが溜まった盃に酒を注ぎ足し、一之進は口にする。急にやさしい口ぶりになり、とき葉に顔を近づける。
「とき葉の酒は旨いのう。どうだ、次はどうして欲しいのだ」

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蒼-5

「お気を悪くせずお聞きいただけたら幸いに存じます。私は以前より一之進様のことを尊敬して参りました。もちろん、人として好いてもおります。ひとつに、あなた様は人を粗末になさいません。あの子のような幼い見習いや番頭、下足番にまでお帰りになる際はお声をおかけになって…私はとてもうれしいのです。私の好いたお方がそのように人を大切にする方で、その方に私は特別に大切にしていただいております。楼の者は皆、あなた様にねぎらいの言葉を掛けていただくと、自分の仕事を良かったと思うでしょう。ここは、男女の情と銭が行き交う楼でございますゆえ、言葉を掛けていただくことなどあまりありませんから」
楼の主は別名を「亡八」という。仏教の八つの徳である仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌を忘れてしまっているからだと言われている。確かに、娘を買い、金で縛り、売るということは、人の道に反している行為だとだれもが自然に分かっていることなのかも知れない。しかし、それを買いにくるものもまた人である。多くの人がこの理不尽な道理を快楽に溶かし飲み込んでいるのだ。
一之進は思った…自分が人によく目を掛けているととき葉は言うが、それを見ているとき葉こそ、人をよく見ている。そして人の目をまっすぐに見つめおおげさでなく褒め、素直に問うてくる。とき葉が男で生まれていたならば、自分の良き右腕になっただろう。
「とき葉、おまえはここに置いておくにはもったいない。もしも男に生まれておったならば、わたしとは無二の友、言わずともわかり合える同志になれたであろう」
ふふふ、と笑いながらとき葉は返す。
「それでは困ります一之進様、私が男であったら、こうして寄り添うていることもできませんもの。一緒に床に入りあなた様の腕の中でまどろむこともできぬではありませんか」
さっき禿が運んで来た台の酒を盃に注ぎ、とき葉はまた口を付けた。今日の酒はまろやかで香しく、心の奥まで染みるようにおいしかった。飲んでは笑い、また一之進とじゃれては飲み、酔いは回っていた。
「それもそうだ、それではわたしも困る。とき葉が男であったならこうして、こうすることもできなかった」
一之進はとき葉の盃を取り上げ台に置き、赤い絹の布団のなかにひきずり込んだ。とき葉は、きゃっと声を上げて笑いながら抵抗する振りをしながらも布団に入った。
「とき葉は酔うとどうなるのだ?酒を飲ませたのは正真正銘ここにいるわたしだ。飲ませたからには責任を以て確かめさせてもらうぞ」
腕にしっかりととき葉の肩を抱き、もう一方の腕で袂に手を滑らせる。柔らかなふくらみが一之進の手に留まり、抱く腕に力が入る。
二人は口づけをして、ぎゅっと抱き合うと示し合わせたようにお互いの着物を緩める。袂を広げ肩から滑らせるように脱がせて行く。互いの首から胸元までがあらわになり、着物は腰に掛かっているだけで、自分の体で相手の体温を確かめあう。一之進はとき葉の首筋に口をつけ、軽く噛むそぶりをしながら耳元へと上がっていく。
とき葉の耳に一之進の吐息がかかると、とき葉は背筋をびくっとさせ反応を示す。そしてさらに耳の入り口を舌でなぞると、とき葉は浅いため息をかすかに漏らした。

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蒼-4

隣の部屋には、赤い絹の布団が敷かれ、枕元には美しい蒔絵の煙草盆が設えられていた。一之進は布団に入りうつぶせで肘をついたまま、禿が酒の台を目の前に持ってくるのをしげしげと見つめていた。禿の年齢はやっと十を数えるくらいだろうか。女と呼ぶにはまだ早すぎる禿は、客あしらいを覚える以前に、作法やしつらえといったものを学ばねばならない。女達の下働きとして、片付けものやお膳の移動、お運びを伏し目がちで機敏な動作でこなす。とき葉の美しい立ち居振る舞いもこのくらいのころからこうして働いてきたからなのだなぁとぼんやりと考えていた。
人形のように前髪をばっさりと切りそろえて、町の子どもとは全く違い、人形のように派手な着物を着ている禿に、一之進は興味本意に話しかけた。
「なぁ、良い柄の着物を着ているな。そんなに綺麗な着物はなかなか目にしたことがない」
禿はびくっとして、布団の方をそおっと見た。
「…姉さん達の着物や襦袢を解いて…お針子さんが作ってくれます」
子どもそのものといった幼い声色で、禿は懸命に考えながら返事をする。あまり客に話しかけられることもないので少しおびえているようでもあった。それを見て一之進はすこしすまない気持ちになった。
「そうか、そうか。これでお菓子でも買っておいで、この辺りでは何屋の菓子がうまいのだ?」
一之進はそんな禿の動作を幼いころのとき葉に重ねて、ほほえましく思った。にっこりしながら枕元の巾着から小判をだして、枕元の水盆のそばにあった懐紙でねじり、禿の前に置いた。
「ありがとうございます。ここらでは青山庵のがおいしゅ…おいしゅうございます」
両の手をまっすぐに床に延ばし、三つ指をついてお辞儀をしながら言った。きっと覚えたばかりの作法であるのだろう。
そこへとき葉が衣装替えをして、入って来た。
「まあ、おまえよかったわねぇ。一之進様、この子はお菓子が大好きで、こんなに小さいのにお菓子の味の良しあしだけはよく分かるのですよ」
一之進の枕元に座りながら、とき葉は妹にでも話しかけるように禿をやさしくいなす。
「きちんとお礼は言えたの?さぁ、階下へ行ってお許しもらっておいで。こちらはもういいから」
それを聞くと禿は体を丸めて、再び一之進に軽く頭を下げ、出で行こうとした。出て行き際に一之進は禿に声をかける。
「おまえの分はもちろんだが、他の子の分も買っておやりよ。おまえさんの見立てた菓子ならきっと喜ぶだろうに」
禿は声にならない返事をしながら、恥ずかしそうにうつむいて襖を閉めた。とき葉は一之進の方へ向き直った。
「あの子のような者にまでお心を掛けてくださり、ありがとうございます」
「なに、あの子を見ていたら、とき葉も幼い頃はそうしていたのかと思うて、ついかわいらしくなってなぁ」
「はい、私も幼くしてここへ来た頃はあのようにしておりました。ですからあの子が今、あなた様にお心遣いを頂いてどんなにうれしい気持ちでいるかも手に取るようにわかります」
そう言ってとき葉はうれしそうに微笑むと煙草に火をつけ、一之進に渡した。

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蒼-3

「さあ、とき葉」
そう言って一之進は自らの盃を手に取ってとき葉を促す。
「頂戴します。」
とき葉は盃を押し頂いて、一之進が自分の馴染みになった時のことを思い出していた。
「馴染み」になるのには、結婚のまねごとの儀式があり、客からの結納代わりの贈り物と盃の交換がある。その時の一之進は、柔らかでまぶしいようなまなざしでとき葉を優しく見つめ、とき葉の挨拶の口上にときおりうなずいていた。今盃を手にしている一之進のまなざしはその時と少しも変わらない。寿ぎに満ちた桜の花のにおいにつられて、とき葉はうれしい笑みを押さえる事ができず、ふふと声をだしてしまった。
「どうしたとき葉。わたしの顔に何かついているか?」
「いえ、あなた様が私の馴染みとなって下さった時のことを思い出しておりました。あのときもこの屏風を背にして、二人こうして盃を交わしたものですね。」
「そうだなぁ、慣れぬしきたりばかりでされるがままであったが、楽しかった。さぁ飲むか」
二人は、同時に盃に口をつけた。桜のにおいは、それ自体も色を持っているかのようにはっきりと立ち、ほんのりとした塩気が酒に彩りを一層添えていた。とき葉は、口の中でしっかりと酒の温度を感じ飲みこんだ。今まで感じた事のないような温かい刺激が喉の奥から胃までぱあっと広がる。
飲み込んで一息小さくしたため息は、桜のにおいと酒の芳醇な気配を宿していた。
「…はぁ、あったかい…」
「どうだ?」
「はい、満開の桜の下にいるようです。酒とは、このようにあたたかく香りの良いものでしたか」
一口飲んで少しほっとしたようなとき葉の表情を見て、一之進は満足そうに自分の盃を飲み干し、続けた。
「酒というものはな、飲む者の心によって味を変えるのだ。つらい時には酒は苦くなる。楽しい時には酒は旨くなる。飲む者の心を覗き、引き立てようとするのが酒だとわたしは思っている。とき葉、今日の酒はうまいか?」
「はい、今まで味わった事のないような良い味でございます。温かくて、体の奥まで流れて行くのがはっきりとわかるのが心地よくて…私は今、とても幸せですね」
一口、二口と盃を傾けながらとき葉は、だんだんと自分の体が軽くなるような感じがした。結い付けた髪に挿してある簪の重さもはっきりと分かるほどに。
「そうか、それは良かった。とき葉、おまえの顔色が桜の花の色のようになってきた。酔うたか?」
「ええ、体がふわりと浮いたようでございます。こうしていても良いでしょうか?」
そういうととき葉は一之進に寄りかかった。一之進はとき葉の肩をしっかりと抱き、とき葉をみつめると、とき葉の目はとらえどころがなくとろんとしていて、その妖艶さに心奪われる。
「とき葉…きれいだよ」
すぐにでもとき葉の帯を解いて、抱きしめたい衝動に駆られ、腕の中から見上げてくるとき葉を抱き直して頬ずりした。とき葉もそれに答えるように一之進の方に向き直り、微笑みながら額同士をくっつけて、やがて口づけをした。

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蒼-2

「何ということはない。わたしがいつも酒を飲まぬのはお前と話しているのがとても楽しいからだよ。ただ、飲まぬのはわたしだけではない、とき葉もわたしと居る時はいつも飲んではおらぬだろう。だからわたしはとき葉の酔うた姿を見た事がない、これは酔うた姿も見ておかねばもったいないと思い立ったのだ」
いたずらな子どものように一之進は白い歯をみせると、とき葉の頬を人差し指で軽く突ついて続けた。
「酒を飲むのも忘れて話をする女はお前だけだよ。とき葉はわたしの言う事を心を傾けてよう聞いてくれる。しかしな、何でも話せるおまえだからこそ、たまには同輩と飲むように酒でも酌み交わしてみたくなったのだよ」
とき葉は自分が一之進に認められたのと、一之進の外での振る舞いを想像して楽しくなった。ここより外で一之進がどのような仲間とどのように過ごしているのかは、とき葉は知るすべもない。まして、楼にはその外での煩わしさを忘れようとして来る客ばかりで、普段の行動や素性を聞き込むことは、楼の女としてたしなみに欠ける行為であるため、たとえ一之進と互いに心が通じあっていたとしても、とき葉は聞く勇気を持てなかった。
「一之進さま…私は酒というものに酔うたことがありません。無論、うわばみのごとく酔わぬのではなく、酒というものの味がわからぬのです」
客に勧められ飲むことはあっても、自分が酔う訳にはいかないため、とき葉は酒のにおいを嗅ぐと、酔わぬようにと心のなかで自分にまじないを掛けるように気を張って口にするのが常だった。
「そうか、おまえの言わんとするところは分からぬではない。味が分からぬのは、酔うてはならんと気を張っているからではないのか?」
「そのとおりです」
とき葉はほかの客とのことを一之進に想像されたのではないかと不安になりながら、うつむいて言葉少なく答えた。一之進にだけは、ほかの客とのことなど思いをめぐらせて欲しくはない。
「わたしとならば、すこしは油断して飲めるか?ただし無理には勧めないよ。ゆっくりと話しながら酒というものの味を確かめてはどうだ」
「はい、一之進さまがそう申されるのなら…」
「そうか、ならば酒を」
そういうと一之進は屏風をちらと見て話を続けた。
「ところでとき葉、おまえ桜の花が好きだと言っていたね。なぜ桜の花が好きなのだ?」
「はい、菊や水仙・桔梗などは手折って思う人のところへ持ってくる事ができます。しかし桜は手折る事はできません。来年もまたその次も咲く枝を切ることは無粋というものでしょう。ですから桜は咲いているところまで見に行かねばなりません。想う人に桜の美しさを見せたいと考えれば、その人にその思いを伝え、一緒に見に行かなければ見せることが出来ない、そのようなところが好きなのです」
一之進は考えていた。とき葉が楼の女である限り、想いが互いに通じていたとしても、桜を見に出かけることなどまず出来ない。華やかな女の過酷な状況と、外の世界にあこがれる想いがひしひしと伝わって来た。
「いや、とき葉。菊や水仙だとて野に咲いている姿が一番美しいのだ、花は野にあるままがな。いつの日かわたしが小さな頃に見た、峠の山桜を見せたいものだ。」
「ありがとうございます、一之進さま。ご幼少の頃のあなたさまはきっと空を見上げるようにして桜の木を見ていたのでしょうね」
とき葉は、小さな一之進が仰ぐように桜を見ている姿を想像して微笑んだ。
「そうだなぁ、峠にさしかかり遠くから見た時には何ともないただ一本の桜の木であったが、近くに来たら、それは大きくて小さなわたしの頭の上に桜の天井が広がっているようで、子どもながらに感じ入っていたのをよく覚えている。…思い出した、わたしはその桜の枝を持ち帰ると言って共の者を随分困らせたのだ。その時に『毎年咲き続ける枝を無碍に払うことはどのような偉い人だとてならぬもの』と教えられた。とき葉、おまえも誰かに桜の枝を折ってはならぬと教えられたのか?」
とうに酒の準備は出来ており、朱の片口にはほどよく温められた酒が、傍らには盃が二つ仲良く置かれていた。
「はい、どなたかははっきりとはわかりません。小さな頃ですから。『切りさえしなければ、同じ枝に毎年花をつける。桜を手折るのは花の美しさを知らぬ者だけである』と桜を見ていた私に声を掛けてくださった人がおりました」
懐かしい顔をするととき葉は、盃を一之進の手に持たせて片口に手をかけた。
「とき葉、うれしいよ。時間も場所も違うのに同じような心持ちで桜を愛でていたとはね。では、これを」
一之進は盃を置いて懐に手を入れた。その手には薬包よりも一回り大きい紙包みが載っていた。それを開くとしおれた花のようなものが、いくつか折り重なって
いた。そして一之進は花をつまみ上げると自分ととき葉の盃に一辺ずつ置いた。
「これは、桜の花の塩漬けだ。ここからすぐに桜を見に行くことはできないが、花見酒にしようか」
とき葉はうなずくと、片口を手に取り、一之進の盃にゆっくりと注いだ。桜の花は時間が逆戻りするかのようにしなびた状態から酒の中でゆっくりと花びらを広げ、息を吹き返した。人肌よりも少し温かい酒のかすかな湯気からは桜のにおいがした。盃をのぞき込んでいた二人は目を合わせてにっこりと笑った。一之進は盃を置き、とき葉の盃にも同じように酒を注いだ。

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蒼-1

 楼の二階の窓の手すりに腰を掛け、とき葉は煙草の煙で輪を作って遊んでいた。昼見世の時分だとい うのに、気分がすぐれず自分の座敷から通りを見下ろしながら。
 そしてまぶしいほど雲が白く、空の青さにひときわ映えているのを見て、子どものようないたずら心で煙草の煙で雲を真似しようとまんまるに口を開けて煙を吐いていた。

「とき葉姉さん、一之進様お上がりです。」
 襖の向こうで禿の幼い声がした。とき葉はその声を聞いた瞬間、うれしそうに立ち上がり、襟元に手をやり整えて、裾を軽く手で払いいそいそと言った。
「おまち、炭をもってきて」
 ひときわ明るい声で襖の向こうに声をかけ、煙管の灰をとんと捨て、鏡台に微笑みかける。紅を差そうと貝を手に取ったが、思いついたようににっこりとして紅を置いた。
 …一之進様には、紅を塗った姿よりもこのままの私の方が好いていただける。
 禿がそそと座敷に入り煙草盆に形の整った炭を据え、茶の用意をする。それを一瞥すると、とき葉は屏風の前に座り一之進を待つ。屏風は一之進がとき葉の馴染みとなった時に贈ったもので、漆の夜空に銀蒔絵の星、雲母を粉にした白で桜を描いた、派手さのない色味が重厚さをいっそう引き出している逸品であった。

「お上がりになりました」
 禿の声とともに襖が明き、ささやかな衣擦れの音とともに一之進が入って来た。
「とき葉、機嫌はどうだい」
「ようこそおいで下さいました。今日は空がまぶしく、私には何もする気がありませんので、遊んでおりました」
「はは、そうかそうか。それでは女将に角が生えることであろう。わたしも一緒に叱られてやるとするか。何をして遊ぶのだ」
 そういうと一之進はとき葉の横に腰を下ろした。普段からとき葉は、一之進や数々の上客のおかげで多少のことは楼主や女将からはうるさく言われることはなかった。今日とて何もせずとも一之進が登楼してくれば楼として何も叱ることはないのだが。
「まずはお茶を」
 そう言ってにこやかに笑うと茶を入れようとしたが、一之進が制した。
「今日は酒でも飲むか、とき葉はどうだ?どうせお前も遊んでおったのだろう、つき合っておくれ」
 楼に登る時は酒もあまり飲まずに、とき葉と話し込むのが常なのだが今日は違った。
「どうしました一之進様、いつもは酒などはお飲みになりませんのに」
とき葉は手をとめてまっすぐに一之進の目の奥を覗き込んだ。もしも一之進の身辺に何かあったら、嫌な事があってそれを誰にも漏らす事ができぬとか…とき葉は一瞬にして心配になった。

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