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2009年1月

交わりと死

人には必ず生が有り、また死が訪れます。盛者必衰、会者定離。生まれでてたものには必ず死が訪れ、そこで会った者同士も、最期は死が分かつ。
本当のことを理解するのは大変難しいように思います。
とき葉は素直で一途な反面、妖艶で性に深く取り憑かれています。それは生のあるがままの姿ではと思わされることが多いです。生きれば必ず他の人間との接触があり、やがてその接触は男女のそれへと昇華していく。そして衰え、次の盛者に生命の輝く場所を譲り、死がおとずれる。

近代では不義不貞だとか、社会のルールから外れた「情愛」は悪だと見なされがちです。とき葉の世界は現代のルールから私を解き放ってくれます。誰が量っても絶対な「金」だけに男女の営みが賭され、その中でとき葉は一之進を見つけてしまいました。とき葉が一之進とどう添い遂げるのか、私は楽しみです。それは、現実世界の私にとって、自分の持つ愛に対して正直に生きるための、手かがりとなるかもしれません。

死は必ずおとずれるものだから、安心して生きられる。死がおとずれなければ、怖くて何もできません。どうせいつか死ぬんだからという、捨て鉢な気持ちではない、生に対して崇高な想いが自分を解き放つのかもしれません。生は愛、どちらをあきらめても、あきらめなくても死に至る。ならば、自分の情愛の赴くままに生きてもいいではないのでしょうか。

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蒼-6

それでも一之進は容赦ない。とき葉の反応をおもしろがるように耳たぶを噛む。一之進は、男女の交わりの時には普段のさっぱりとした気性とは違った面を持つ。自分の動きに反応しているとき葉の表情やしぐさを見ると、もっとめちゃくちゃにしたい、壊したいという衝動に駆られる。掛け布団など傍らにめくり捨て、とき葉に胡座をかかせて自分の腰紐で後ろ手に縛り、襦袢を脱がさずに裾を腰まで捲る。とき葉は手を戒められているため隠す事もできず、恥ずかしくてたまらないような表情になるが、わざと煙草に火をつけそっけなく声をかける。
「とき葉、おまえのここはこんなに見て欲しいと泣いてせがんでおる」
一服煙を吐き出し、少し酒の残っていた盃を飲み干す。空になった盃をとき葉の秘部にあてがう。
「あぁ…やめてください。とき葉はそんなに…」
「濡れてはおらぬと申すか、ほれ、こんなに溜まっているではないか」
わずかに盃に垂れたしずくをとき葉の目の前にもっていき見せつける。とき葉はいやいやをして見ない振りをするが、見なくても自分が十分に潤っていることはとき葉本人が一番わかっていた。
とき葉が水揚げの時に手ほどきを受けた爺も、そのような趣向の強い大店の商家の主であった。楼主がとき葉の性格を見抜いた上であてがった客で、数々の女を品物に仕立てあげてきた来た楼主にさえ、とき葉の恥じらう姿は一幅の掛け軸にも勝ると言わしめるまでにとき葉を成長させた粋人であった。それがとき葉にとって幸せなのかは誰にもわからないが、おかげでとき葉はそのような趣向を持った少数の豪商や武士を客としていたため、毎日毎晩、何人もこなさねばならない他の女達よりは体力的にも、金銭的にもましであった。とき葉の客はたいてい居続けといって昼見世から夜見世、そのまま朝まで居る事が多かった。そうは言っても心の無い男女の交わりを強いられることは女にとっては地獄に変わりはない。そんな中で一之進との逢瀬はとき葉の生きるよすがであり、この上ない幸せのひとときであった。
「一之進様、お許しくださいませ…」
羞恥にからだを折り曲げるようにして懇願するとき葉を横目に、しずくが溜まった盃に酒を注ぎ足し、一之進は口にする。急にやさしい口ぶりになり、とき葉に顔を近づける。
「とき葉の酒は旨いのう。どうだ、次はどうして欲しいのだ」

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蒼-5

「お気を悪くせずお聞きいただけたら幸いに存じます。私は以前より一之進様のことを尊敬して参りました。もちろん、人として好いてもおります。ひとつに、あなた様は人を粗末になさいません。あの子のような幼い見習いや番頭、下足番にまでお帰りになる際はお声をおかけになって…私はとてもうれしいのです。私の好いたお方がそのように人を大切にする方で、その方に私は特別に大切にしていただいております。楼の者は皆、あなた様にねぎらいの言葉を掛けていただくと、自分の仕事を良かったと思うでしょう。ここは、男女の情と銭が行き交う楼でございますゆえ、言葉を掛けていただくことなどあまりありませんから」
楼の主は別名を「亡八」という。仏教の八つの徳である仁・義・礼・智・信・忠・孝・悌を忘れてしまっているからだと言われている。確かに、娘を買い、金で縛り、売るということは、人の道に反している行為だとだれもが自然に分かっていることなのかも知れない。しかし、それを買いにくるものもまた人である。多くの人がこの理不尽な道理を快楽に溶かし飲み込んでいるのだ。
一之進は思った…自分が人によく目を掛けているととき葉は言うが、それを見ているとき葉こそ、人をよく見ている。そして人の目をまっすぐに見つめおおげさでなく褒め、素直に問うてくる。とき葉が男で生まれていたならば、自分の良き右腕になっただろう。
「とき葉、おまえはここに置いておくにはもったいない。もしも男に生まれておったならば、わたしとは無二の友、言わずともわかり合える同志になれたであろう」
ふふふ、と笑いながらとき葉は返す。
「それでは困ります一之進様、私が男であったら、こうして寄り添うていることもできませんもの。一緒に床に入りあなた様の腕の中でまどろむこともできぬではありませんか」
さっき禿が運んで来た台の酒を盃に注ぎ、とき葉はまた口を付けた。今日の酒はまろやかで香しく、心の奥まで染みるようにおいしかった。飲んでは笑い、また一之進とじゃれては飲み、酔いは回っていた。
「それもそうだ、それではわたしも困る。とき葉が男であったならこうして、こうすることもできなかった」
一之進はとき葉の盃を取り上げ台に置き、赤い絹の布団のなかにひきずり込んだ。とき葉は、きゃっと声を上げて笑いながら抵抗する振りをしながらも布団に入った。
「とき葉は酔うとどうなるのだ?酒を飲ませたのは正真正銘ここにいるわたしだ。飲ませたからには責任を以て確かめさせてもらうぞ」
腕にしっかりととき葉の肩を抱き、もう一方の腕で袂に手を滑らせる。柔らかなふくらみが一之進の手に留まり、抱く腕に力が入る。
二人は口づけをして、ぎゅっと抱き合うと示し合わせたようにお互いの着物を緩める。袂を広げ肩から滑らせるように脱がせて行く。互いの首から胸元までがあらわになり、着物は腰に掛かっているだけで、自分の体で相手の体温を確かめあう。一之進はとき葉の首筋に口をつけ、軽く噛むそぶりをしながら耳元へと上がっていく。
とき葉の耳に一之進の吐息がかかると、とき葉は背筋をびくっとさせ反応を示す。そしてさらに耳の入り口を舌でなぞると、とき葉は浅いため息をかすかに漏らした。

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蒼-4

隣の部屋には、赤い絹の布団が敷かれ、枕元には美しい蒔絵の煙草盆が設えられていた。一之進は布団に入りうつぶせで肘をついたまま、禿が酒の台を目の前に持ってくるのをしげしげと見つめていた。禿の年齢はやっと十を数えるくらいだろうか。女と呼ぶにはまだ早すぎる禿は、客あしらいを覚える以前に、作法やしつらえといったものを学ばねばならない。女達の下働きとして、片付けものやお膳の移動、お運びを伏し目がちで機敏な動作でこなす。とき葉の美しい立ち居振る舞いもこのくらいのころからこうして働いてきたからなのだなぁとぼんやりと考えていた。
人形のように前髪をばっさりと切りそろえて、町の子どもとは全く違い、人形のように派手な着物を着ている禿に、一之進は興味本意に話しかけた。
「なぁ、良い柄の着物を着ているな。そんなに綺麗な着物はなかなか目にしたことがない」
禿はびくっとして、布団の方をそおっと見た。
「…姉さん達の着物や襦袢を解いて…お針子さんが作ってくれます」
子どもそのものといった幼い声色で、禿は懸命に考えながら返事をする。あまり客に話しかけられることもないので少しおびえているようでもあった。それを見て一之進はすこしすまない気持ちになった。
「そうか、そうか。これでお菓子でも買っておいで、この辺りでは何屋の菓子がうまいのだ?」
一之進はそんな禿の動作を幼いころのとき葉に重ねて、ほほえましく思った。にっこりしながら枕元の巾着から小判をだして、枕元の水盆のそばにあった懐紙でねじり、禿の前に置いた。
「ありがとうございます。ここらでは青山庵のがおいしゅ…おいしゅうございます」
両の手をまっすぐに床に延ばし、三つ指をついてお辞儀をしながら言った。きっと覚えたばかりの作法であるのだろう。
そこへとき葉が衣装替えをして、入って来た。
「まあ、おまえよかったわねぇ。一之進様、この子はお菓子が大好きで、こんなに小さいのにお菓子の味の良しあしだけはよく分かるのですよ」
一之進の枕元に座りながら、とき葉は妹にでも話しかけるように禿をやさしくいなす。
「きちんとお礼は言えたの?さぁ、階下へ行ってお許しもらっておいで。こちらはもういいから」
それを聞くと禿は体を丸めて、再び一之進に軽く頭を下げ、出で行こうとした。出て行き際に一之進は禿に声をかける。
「おまえの分はもちろんだが、他の子の分も買っておやりよ。おまえさんの見立てた菓子ならきっと喜ぶだろうに」
禿は声にならない返事をしながら、恥ずかしそうにうつむいて襖を閉めた。とき葉は一之進の方へ向き直った。
「あの子のような者にまでお心を掛けてくださり、ありがとうございます」
「なに、あの子を見ていたら、とき葉も幼い頃はそうしていたのかと思うて、ついかわいらしくなってなぁ」
「はい、私も幼くしてここへ来た頃はあのようにしておりました。ですからあの子が今、あなた様にお心遣いを頂いてどんなにうれしい気持ちでいるかも手に取るようにわかります」
そう言ってとき葉はうれしそうに微笑むと煙草に火をつけ、一之進に渡した。

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説明

見ていただいた方、ありがとうございます。このブログは、私「とき葉」が本当に睡眠時に見る夢を文章にしたものです。スピリチュアルな事はあまり信じる方ではないのですが、9年ほど前、毎晩同じ人物の夢を見るようになりました。最初は全く同じストーリーの繰り返しだったのですが、最近夢の中の物語も進むようになってきました。

とても不思議なことですが、人との「縁」を信じたい気持ちも重なり、この夢の意味を考えるようになりました。

前世というものがあるのならば、もしかしたら今、夢の中でその前世の記憶をたどっているのかも知れません。

そう考えるとこの続けて見る夢は、私にとって大切なメッセージを残しているのだと思います。

人との縁は不思議なものです。自分の人生に重要な役目を担ってくれたのに、離れてしまう人。離れているのに忘れられない人。

大切な気持ちを夢に重ねて、ストーリーはこれからも進んでいく事でしょう。

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蒼-3

「さあ、とき葉」
そう言って一之進は自らの盃を手に取ってとき葉を促す。
「頂戴します。」
とき葉は盃を押し頂いて、一之進が自分の馴染みになった時のことを思い出していた。
「馴染み」になるのには、結婚のまねごとの儀式があり、客からの結納代わりの贈り物と盃の交換がある。その時の一之進は、柔らかでまぶしいようなまなざしでとき葉を優しく見つめ、とき葉の挨拶の口上にときおりうなずいていた。今盃を手にしている一之進のまなざしはその時と少しも変わらない。寿ぎに満ちた桜の花のにおいにつられて、とき葉はうれしい笑みを押さえる事ができず、ふふと声をだしてしまった。
「どうしたとき葉。わたしの顔に何かついているか?」
「いえ、あなた様が私の馴染みとなって下さった時のことを思い出しておりました。あのときもこの屏風を背にして、二人こうして盃を交わしたものですね。」
「そうだなぁ、慣れぬしきたりばかりでされるがままであったが、楽しかった。さぁ飲むか」
二人は、同時に盃に口をつけた。桜のにおいは、それ自体も色を持っているかのようにはっきりと立ち、ほんのりとした塩気が酒に彩りを一層添えていた。とき葉は、口の中でしっかりと酒の温度を感じ飲みこんだ。今まで感じた事のないような温かい刺激が喉の奥から胃までぱあっと広がる。
飲み込んで一息小さくしたため息は、桜のにおいと酒の芳醇な気配を宿していた。
「…はぁ、あったかい…」
「どうだ?」
「はい、満開の桜の下にいるようです。酒とは、このようにあたたかく香りの良いものでしたか」
一口飲んで少しほっとしたようなとき葉の表情を見て、一之進は満足そうに自分の盃を飲み干し、続けた。
「酒というものはな、飲む者の心によって味を変えるのだ。つらい時には酒は苦くなる。楽しい時には酒は旨くなる。飲む者の心を覗き、引き立てようとするのが酒だとわたしは思っている。とき葉、今日の酒はうまいか?」
「はい、今まで味わった事のないような良い味でございます。温かくて、体の奥まで流れて行くのがはっきりとわかるのが心地よくて…私は今、とても幸せですね」
一口、二口と盃を傾けながらとき葉は、だんだんと自分の体が軽くなるような感じがした。結い付けた髪に挿してある簪の重さもはっきりと分かるほどに。
「そうか、それは良かった。とき葉、おまえの顔色が桜の花の色のようになってきた。酔うたか?」
「ええ、体がふわりと浮いたようでございます。こうしていても良いでしょうか?」
そういうととき葉は一之進に寄りかかった。一之進はとき葉の肩をしっかりと抱き、とき葉をみつめると、とき葉の目はとらえどころがなくとろんとしていて、その妖艶さに心奪われる。
「とき葉…きれいだよ」
すぐにでもとき葉の帯を解いて、抱きしめたい衝動に駆られ、腕の中から見上げてくるとき葉を抱き直して頬ずりした。とき葉もそれに答えるように一之進の方に向き直り、微笑みながら額同士をくっつけて、やがて口づけをした。

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蒼-2

「何ということはない。わたしがいつも酒を飲まぬのはお前と話しているのがとても楽しいからだよ。ただ、飲まぬのはわたしだけではない、とき葉もわたしと居る時はいつも飲んではおらぬだろう。だからわたしはとき葉の酔うた姿を見た事がない、これは酔うた姿も見ておかねばもったいないと思い立ったのだ」
いたずらな子どものように一之進は白い歯をみせると、とき葉の頬を人差し指で軽く突ついて続けた。
「酒を飲むのも忘れて話をする女はお前だけだよ。とき葉はわたしの言う事を心を傾けてよう聞いてくれる。しかしな、何でも話せるおまえだからこそ、たまには同輩と飲むように酒でも酌み交わしてみたくなったのだよ」
とき葉は自分が一之進に認められたのと、一之進の外での振る舞いを想像して楽しくなった。ここより外で一之進がどのような仲間とどのように過ごしているのかは、とき葉は知るすべもない。まして、楼にはその外での煩わしさを忘れようとして来る客ばかりで、普段の行動や素性を聞き込むことは、楼の女としてたしなみに欠ける行為であるため、たとえ一之進と互いに心が通じあっていたとしても、とき葉は聞く勇気を持てなかった。
「一之進さま…私は酒というものに酔うたことがありません。無論、うわばみのごとく酔わぬのではなく、酒というものの味がわからぬのです」
客に勧められ飲むことはあっても、自分が酔う訳にはいかないため、とき葉は酒のにおいを嗅ぐと、酔わぬようにと心のなかで自分にまじないを掛けるように気を張って口にするのが常だった。
「そうか、おまえの言わんとするところは分からぬではない。味が分からぬのは、酔うてはならんと気を張っているからではないのか?」
「そのとおりです」
とき葉はほかの客とのことを一之進に想像されたのではないかと不安になりながら、うつむいて言葉少なく答えた。一之進にだけは、ほかの客とのことなど思いをめぐらせて欲しくはない。
「わたしとならば、すこしは油断して飲めるか?ただし無理には勧めないよ。ゆっくりと話しながら酒というものの味を確かめてはどうだ」
「はい、一之進さまがそう申されるのなら…」
「そうか、ならば酒を」
そういうと一之進は屏風をちらと見て話を続けた。
「ところでとき葉、おまえ桜の花が好きだと言っていたね。なぜ桜の花が好きなのだ?」
「はい、菊や水仙・桔梗などは手折って思う人のところへ持ってくる事ができます。しかし桜は手折る事はできません。来年もまたその次も咲く枝を切ることは無粋というものでしょう。ですから桜は咲いているところまで見に行かねばなりません。想う人に桜の美しさを見せたいと考えれば、その人にその思いを伝え、一緒に見に行かなければ見せることが出来ない、そのようなところが好きなのです」
一之進は考えていた。とき葉が楼の女である限り、想いが互いに通じていたとしても、桜を見に出かけることなどまず出来ない。華やかな女の過酷な状況と、外の世界にあこがれる想いがひしひしと伝わって来た。
「いや、とき葉。菊や水仙だとて野に咲いている姿が一番美しいのだ、花は野にあるままがな。いつの日かわたしが小さな頃に見た、峠の山桜を見せたいものだ。」
「ありがとうございます、一之進さま。ご幼少の頃のあなたさまはきっと空を見上げるようにして桜の木を見ていたのでしょうね」
とき葉は、小さな一之進が仰ぐように桜を見ている姿を想像して微笑んだ。
「そうだなぁ、峠にさしかかり遠くから見た時には何ともないただ一本の桜の木であったが、近くに来たら、それは大きくて小さなわたしの頭の上に桜の天井が広がっているようで、子どもながらに感じ入っていたのをよく覚えている。…思い出した、わたしはその桜の枝を持ち帰ると言って共の者を随分困らせたのだ。その時に『毎年咲き続ける枝を無碍に払うことはどのような偉い人だとてならぬもの』と教えられた。とき葉、おまえも誰かに桜の枝を折ってはならぬと教えられたのか?」
とうに酒の準備は出来ており、朱の片口にはほどよく温められた酒が、傍らには盃が二つ仲良く置かれていた。
「はい、どなたかははっきりとはわかりません。小さな頃ですから。『切りさえしなければ、同じ枝に毎年花をつける。桜を手折るのは花の美しさを知らぬ者だけである』と桜を見ていた私に声を掛けてくださった人がおりました」
懐かしい顔をするととき葉は、盃を一之進の手に持たせて片口に手をかけた。
「とき葉、うれしいよ。時間も場所も違うのに同じような心持ちで桜を愛でていたとはね。では、これを」
一之進は盃を置いて懐に手を入れた。その手には薬包よりも一回り大きい紙包みが載っていた。それを開くとしおれた花のようなものが、いくつか折り重なって
いた。そして一之進は花をつまみ上げると自分ととき葉の盃に一辺ずつ置いた。
「これは、桜の花の塩漬けだ。ここからすぐに桜を見に行くことはできないが、花見酒にしようか」
とき葉はうなずくと、片口を手に取り、一之進の盃にゆっくりと注いだ。桜の花は時間が逆戻りするかのようにしなびた状態から酒の中でゆっくりと花びらを広げ、息を吹き返した。人肌よりも少し温かい酒のかすかな湯気からは桜のにおいがした。盃をのぞき込んでいた二人は目を合わせてにっこりと笑った。一之進は盃を置き、とき葉の盃にも同じように酒を注いだ。

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蒼-1

 楼の二階の窓の手すりに腰を掛け、とき葉は煙草の煙で輪を作って遊んでいた。昼見世の時分だとい うのに、気分がすぐれず自分の座敷から通りを見下ろしながら。
 そしてまぶしいほど雲が白く、空の青さにひときわ映えているのを見て、子どものようないたずら心で煙草の煙で雲を真似しようとまんまるに口を開けて煙を吐いていた。

「とき葉姉さん、一之進様お上がりです。」
 襖の向こうで禿の幼い声がした。とき葉はその声を聞いた瞬間、うれしそうに立ち上がり、襟元に手をやり整えて、裾を軽く手で払いいそいそと言った。
「おまち、炭をもってきて」
 ひときわ明るい声で襖の向こうに声をかけ、煙管の灰をとんと捨て、鏡台に微笑みかける。紅を差そうと貝を手に取ったが、思いついたようににっこりとして紅を置いた。
 …一之進様には、紅を塗った姿よりもこのままの私の方が好いていただける。
 禿がそそと座敷に入り煙草盆に形の整った炭を据え、茶の用意をする。それを一瞥すると、とき葉は屏風の前に座り一之進を待つ。屏風は一之進がとき葉の馴染みとなった時に贈ったもので、漆の夜空に銀蒔絵の星、雲母を粉にした白で桜を描いた、派手さのない色味が重厚さをいっそう引き出している逸品であった。

「お上がりになりました」
 禿の声とともに襖が明き、ささやかな衣擦れの音とともに一之進が入って来た。
「とき葉、機嫌はどうだい」
「ようこそおいで下さいました。今日は空がまぶしく、私には何もする気がありませんので、遊んでおりました」
「はは、そうかそうか。それでは女将に角が生えることであろう。わたしも一緒に叱られてやるとするか。何をして遊ぶのだ」
 そういうと一之進はとき葉の横に腰を下ろした。普段からとき葉は、一之進や数々の上客のおかげで多少のことは楼主や女将からはうるさく言われることはなかった。今日とて何もせずとも一之進が登楼してくれば楼として何も叱ることはないのだが。
「まずはお茶を」
 そう言ってにこやかに笑うと茶を入れようとしたが、一之進が制した。
「今日は酒でも飲むか、とき葉はどうだ?どうせお前も遊んでおったのだろう、つき合っておくれ」
 楼に登る時は酒もあまり飲まずに、とき葉と話し込むのが常なのだが今日は違った。
「どうしました一之進様、いつもは酒などはお飲みになりませんのに」
とき葉は手をとめてまっすぐに一之進の目の奥を覗き込んだ。もしも一之進の身辺に何かあったら、嫌な事があってそれを誰にも漏らす事ができぬとか…とき葉は一瞬にして心配になった。

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