« 蒼-2 | トップページ | 説明 »

蒼-3

「さあ、とき葉」
そう言って一之進は自らの盃を手に取ってとき葉を促す。
「頂戴します。」
とき葉は盃を押し頂いて、一之進が自分の馴染みになった時のことを思い出していた。
「馴染み」になるのには、結婚のまねごとの儀式があり、客からの結納代わりの贈り物と盃の交換がある。その時の一之進は、柔らかでまぶしいようなまなざしでとき葉を優しく見つめ、とき葉の挨拶の口上にときおりうなずいていた。今盃を手にしている一之進のまなざしはその時と少しも変わらない。寿ぎに満ちた桜の花のにおいにつられて、とき葉はうれしい笑みを押さえる事ができず、ふふと声をだしてしまった。
「どうしたとき葉。わたしの顔に何かついているか?」
「いえ、あなた様が私の馴染みとなって下さった時のことを思い出しておりました。あのときもこの屏風を背にして、二人こうして盃を交わしたものですね。」
「そうだなぁ、慣れぬしきたりばかりでされるがままであったが、楽しかった。さぁ飲むか」
二人は、同時に盃に口をつけた。桜のにおいは、それ自体も色を持っているかのようにはっきりと立ち、ほんのりとした塩気が酒に彩りを一層添えていた。とき葉は、口の中でしっかりと酒の温度を感じ飲みこんだ。今まで感じた事のないような温かい刺激が喉の奥から胃までぱあっと広がる。
飲み込んで一息小さくしたため息は、桜のにおいと酒の芳醇な気配を宿していた。
「…はぁ、あったかい…」
「どうだ?」
「はい、満開の桜の下にいるようです。酒とは、このようにあたたかく香りの良いものでしたか」
一口飲んで少しほっとしたようなとき葉の表情を見て、一之進は満足そうに自分の盃を飲み干し、続けた。
「酒というものはな、飲む者の心によって味を変えるのだ。つらい時には酒は苦くなる。楽しい時には酒は旨くなる。飲む者の心を覗き、引き立てようとするのが酒だとわたしは思っている。とき葉、今日の酒はうまいか?」
「はい、今まで味わった事のないような良い味でございます。温かくて、体の奥まで流れて行くのがはっきりとわかるのが心地よくて…私は今、とても幸せですね」
一口、二口と盃を傾けながらとき葉は、だんだんと自分の体が軽くなるような感じがした。結い付けた髪に挿してある簪の重さもはっきりと分かるほどに。
「そうか、それは良かった。とき葉、おまえの顔色が桜の花の色のようになってきた。酔うたか?」
「ええ、体がふわりと浮いたようでございます。こうしていても良いでしょうか?」
そういうととき葉は一之進に寄りかかった。一之進はとき葉の肩をしっかりと抱き、とき葉をみつめると、とき葉の目はとらえどころがなくとろんとしていて、その妖艶さに心奪われる。
「とき葉…きれいだよ」
すぐにでもとき葉の帯を解いて、抱きしめたい衝動に駆られ、腕の中から見上げてくるとき葉を抱き直して頬ずりした。とき葉もそれに答えるように一之進の方に向き直り、微笑みながら額同士をくっつけて、やがて口づけをした。

|

« 蒼-2 | トップページ | 説明 »

もうひとつの世界」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1153953/27142164

この記事へのトラックバック一覧です: 蒼-3:

« 蒼-2 | トップページ | 説明 »