蒼-2
「何ということはない。わたしがいつも酒を飲まぬのはお前と話しているのがとても楽しいからだよ。ただ、飲まぬのはわたしだけではない、とき葉もわたしと居る時はいつも飲んではおらぬだろう。だからわたしはとき葉の酔うた姿を見た事がない、これは酔うた姿も見ておかねばもったいないと思い立ったのだ」
いたずらな子どものように一之進は白い歯をみせると、とき葉の頬を人差し指で軽く突ついて続けた。
「酒を飲むのも忘れて話をする女はお前だけだよ。とき葉はわたしの言う事を心を傾けてよう聞いてくれる。しかしな、何でも話せるおまえだからこそ、たまには同輩と飲むように酒でも酌み交わしてみたくなったのだよ」
とき葉は自分が一之進に認められたのと、一之進の外での振る舞いを想像して楽しくなった。ここより外で一之進がどのような仲間とどのように過ごしているのかは、とき葉は知るすべもない。まして、楼にはその外での煩わしさを忘れようとして来る客ばかりで、普段の行動や素性を聞き込むことは、楼の女としてたしなみに欠ける行為であるため、たとえ一之進と互いに心が通じあっていたとしても、とき葉は聞く勇気を持てなかった。
「一之進さま…私は酒というものに酔うたことがありません。無論、うわばみのごとく酔わぬのではなく、酒というものの味がわからぬのです」
客に勧められ飲むことはあっても、自分が酔う訳にはいかないため、とき葉は酒のにおいを嗅ぐと、酔わぬようにと心のなかで自分にまじないを掛けるように気を張って口にするのが常だった。
「そうか、おまえの言わんとするところは分からぬではない。味が分からぬのは、酔うてはならんと気を張っているからではないのか?」
「そのとおりです」
とき葉はほかの客とのことを一之進に想像されたのではないかと不安になりながら、うつむいて言葉少なく答えた。一之進にだけは、ほかの客とのことなど思いをめぐらせて欲しくはない。
「わたしとならば、すこしは油断して飲めるか?ただし無理には勧めないよ。ゆっくりと話しながら酒というものの味を確かめてはどうだ」
「はい、一之進さまがそう申されるのなら…」
「そうか、ならば酒を」
そういうと一之進は屏風をちらと見て話を続けた。
「ところでとき葉、おまえ桜の花が好きだと言っていたね。なぜ桜の花が好きなのだ?」
「はい、菊や水仙・桔梗などは手折って思う人のところへ持ってくる事ができます。しかし桜は手折る事はできません。来年もまたその次も咲く枝を切ることは無粋というものでしょう。ですから桜は咲いているところまで見に行かねばなりません。想う人に桜の美しさを見せたいと考えれば、その人にその思いを伝え、一緒に見に行かなければ見せることが出来ない、そのようなところが好きなのです」
一之進は考えていた。とき葉が楼の女である限り、想いが互いに通じていたとしても、桜を見に出かけることなどまず出来ない。華やかな女の過酷な状況と、外の世界にあこがれる想いがひしひしと伝わって来た。
「いや、とき葉。菊や水仙だとて野に咲いている姿が一番美しいのだ、花は野にあるままがな。いつの日かわたしが小さな頃に見た、峠の山桜を見せたいものだ。」
「ありがとうございます、一之進さま。ご幼少の頃のあなたさまはきっと空を見上げるようにして桜の木を見ていたのでしょうね」
とき葉は、小さな一之進が仰ぐように桜を見ている姿を想像して微笑んだ。
「そうだなぁ、峠にさしかかり遠くから見た時には何ともないただ一本の桜の木であったが、近くに来たら、それは大きくて小さなわたしの頭の上に桜の天井が広がっているようで、子どもながらに感じ入っていたのをよく覚えている。…思い出した、わたしはその桜の枝を持ち帰ると言って共の者を随分困らせたのだ。その時に『毎年咲き続ける枝を無碍に払うことはどのような偉い人だとてならぬもの』と教えられた。とき葉、おまえも誰かに桜の枝を折ってはならぬと教えられたのか?」
とうに酒の準備は出来ており、朱の片口にはほどよく温められた酒が、傍らには盃が二つ仲良く置かれていた。
「はい、どなたかははっきりとはわかりません。小さな頃ですから。『切りさえしなければ、同じ枝に毎年花をつける。桜を手折るのは花の美しさを知らぬ者だけである』と桜を見ていた私に声を掛けてくださった人がおりました」
懐かしい顔をするととき葉は、盃を一之進の手に持たせて片口に手をかけた。
「とき葉、うれしいよ。時間も場所も違うのに同じような心持ちで桜を愛でていたとはね。では、これを」
一之進は盃を置いて懐に手を入れた。その手には薬包よりも一回り大きい紙包みが載っていた。それを開くとしおれた花のようなものが、いくつか折り重なって
いた。そして一之進は花をつまみ上げると自分ととき葉の盃に一辺ずつ置いた。
「これは、桜の花の塩漬けだ。ここからすぐに桜を見に行くことはできないが、花見酒にしようか」
とき葉はうなずくと、片口を手に取り、一之進の盃にゆっくりと注いだ。桜の花は時間が逆戻りするかのようにしなびた状態から酒の中でゆっくりと花びらを広げ、息を吹き返した。人肌よりも少し温かい酒のかすかな湯気からは桜のにおいがした。盃をのぞき込んでいた二人は目を合わせてにっこりと笑った。一之進は盃を置き、とき葉の盃にも同じように酒を注いだ。
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